読書録゛ ‐ どくしょログ

触れた、読んだ、書いた

書評: 恋愛小説 (3タイトル)

  ここのところカタイ本が続いたので、少し息が抜ける恋愛モノの小説をいくつか読んでみた。

1ポンドの悲しみ

1ポンドの悲しみ

 

  石田衣良氏の本は小説よりもエッセーのほうが個人的には好きである。また、長編小説よりも短篇集のほうが冴えていると思う。この本は短編恋愛小説であるが、颯爽とした風が吹いていくようで、読んでいてとても気持ちのいい本だ。

 筆者はこの短篇集の中では「スローガール」と「デートは本屋で」のエピソードがなかなか気にいっている。

 

 「スローガール」は対局の世界にある人同士が惹かれ合うこともあるという話。現実にはほとんどないケースであろうが、ありえないと言い切ることもできない。異なる世界同士が触れ合い、接点を互いに求めれば、思わぬ愛情に発展することもあろう。巡りあうことすらほとんどなく終わる現実世界の中で、生涯に一度でもこのようなケースにありつければとてつもない運の良さだ。その甘美を知れる人はごく僅かであるが故に、その経験はとてつもない価値がある。

 

 「デートは本屋で」のエピソードは、読んでいる本でその人物像をある程度知ることができるという事実をよく言語化している。ただ、本の感想を述べ合うデートというのはあまり好きではない。本は感想や内容を互いに述べ合うものではなく、一度心に染み込ませてから自分の思考と言語に変換し、血と肉となった後で、しかるべき場所とタイミングで如何に表出させるかにかかっている。会話の中で本を用いるのはこれがベストだと思う。

 そもそも本は「文字」で記述されているものであるから、感想を述べるにもまた「文字」にすべきものだと思う。文字で記述されているものには、文字で表現し返戻するのが媒介なく最も伝えやすい方法なのではないだろうか。

 本の感想は十人十色であり、デートの場で互いに述べ合ったところで心に響くものなのだろうか。筆者には残念ながらそのような経験はない。

 デートの場で伝える本の面白さは「この本おもしろいよ、よかったら読んでみて」だけで十分だ。あとは後日のデートで、本のエピソードを互いにどう会話に、恋愛に用いるかで、その後の進展は変わってくるだろう。

 

 

愛の流刑地〈上〉 (幻冬舎文庫)

愛の流刑地〈上〉 (幻冬舎文庫)

 

 

愛の流刑地〈下〉 (幻冬舎文庫)

愛の流刑地〈下〉 (幻冬舎文庫)

 

 先に紹介した本をミント系のアメとすれば、これとは正反対にネットリと濃厚なキャラメルのような恋愛小説が「愛の流刑地」である。 もうこれは「恋愛」などという生易しいものではなく、「官能」に近い小説だ。よくこれを新聞の朝刊に連載できたものだと思う。きっと朝から前かがみになって出勤するサラリーマンも多かったのではないだろうか。

 この小説でよく理解できたのは、作者である渡辺淳一氏は生粋のスケベであったことだ。実体験なくしてここまでまず書けないだろう。例えば、女性とホテルで食事をするときは、最上階にレストランがあるホテルがいいと言う。部屋を取ってあれば下から部屋に「上がる」より、上から「下って」部屋に立ち寄るほうが心理的抵抗が少ないとのことだ。どこまで実践していたかはわからないが、かなり「研究」していたことは伺える。なかなかどうして愛すべきエロオヤジである。

 上巻は官能のオンパレードだが、下巻からはエロから愛へと内容が深くなる。男女愛の極限状態とはどういうものなのか、渡辺淳一氏特有の世界観で語られていく。ある意味、エロの極限とは何かが垣間見える気がするから不思議だ。

 物語全体を通して多くは主人公である男性の視点から描かれているが、時折女性の視座から語られているところもある。ただ作者は男性であり、女性の視点は想像の産物かもしれない。実際に女性がこの本を読んでどう思うのか、ちょっと知りたいとも思う。

 

 

恋愛論 (角川文庫)

恋愛論 (角川文庫)

 

 女性の観点から描かれている恋愛論も上記二冊を読みながら知りたくなった。作者の森瑤子氏はもう20年以上も前に他界しているが、筆者が若い頃、とても好きであった作家の一人だ。特に新聞で連載されていた「東京発千夜一夜」は好きで、過去に単行本も購入した。

 この本は作者の娘さんに宛てた母親の「小言」集と言ってもいいかもしれない。ただ「小言」と言っても嫌味なところはなく、小気味いいほど腑に落ちてくる言葉がふんだんに使われている。自分の経験を踏まえ、相手の立場を思いやり、言葉を選びながら、エスプリを効かせて書かれている。だからとても読み易い。家族の立場から森瑤子氏がどのような母親であったかは想像するしかないが、文章を読む限りは多くの愛情が羨ましいほど伝わってくる。

 

 短篇集になっているので多くの逸話が語られているが、筆者が個人的に気になった話がある。それは男の手について語られている一節であったが、作者は男の手に関しては「いっぱしの意見と鑑識眼」を持っているという。男の手が好みに合わなければ、恋愛に発展することはまずなかったという。

 筆者も似たような経験を持つ。森瑤子氏ほどの鑑識眼は持ち合わせていないが、女性の手にある程度触れれば、その後の恋愛が続くか続かないかぐらいは、なんとなく予感できた。触れたくなる手とそうでない手は確実に存在し、手をつないでも違和感がない人でないと長続きしなかった。もちろん手だけが判断材料ではないが、大きなウェイトを占めていたのは事実である。

 どんなに頭で相手のことを想っていても、その人が歩んできた道で培われた手、生物として存在する手の相性による適合、もしくは拒絶はあると思う。ルックスや経済力、学歴だけで相手を選んでしまい、こういう身体性を軽視してしまうことから現代社会におけるさまざまな悲劇が生じているのではないだろうかとも考えてしまう。

 恋愛は数値化できない部分のほうが多いというのが筆者の持論だ。勘や感覚だけに頼るのは無論、無謀であるが恋愛においては決して無視できない部分でもある。

 ちなみに筆者とカミさんの手の相性は抜群によいことを最後に述べておきたいと思う。