読書録゛ ‐ どくしょログ

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書評: バカの壁

 「人は自分が見たいと思う現実しか見えない」と言ったのはカエサルだが、この「バカの壁」はそれを現代の諸問題と照らし合わせながら詳述したものに近い。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 株式が上向いて新聞の紙面から景気の良い話がちらほら聞こえてくるが、これも現実の一側面のみをなぞったものとも言えるのではないか。見たくない/見せたくない現実は認識を希薄化し、たとえ存在してもすぐに上かぶせで見たい現実で覆い隠す。

 原発の問題などもいい例で、たとえ継続している大問題であっても、その見せ方と人々の見たい意思の有無によって、いかようにも「無問題」として見過ごさせることはできる。自国を礼賛する番組を垂れ流しすることで、人々を高揚させ、仮初めの自信をもたらすこともまたできない話でもない。その一方で「見たくない現実」も着実に進行しているが、それを正面から認識し行動できる人は極めて少なく、同時にリスクを負うことを覚悟しなければならない。カエサルは人々の見たくない現実を刮目させようとして殺されたのだ。

 

 人の見たい現実をいかにうまく見せ、見たくない現実を如何に水面下で処理するのが為政者の手腕なのかもしれない。簡単に殺されたくない日本の現政権もそれを試みているようであるが、見る人が見ればその雑さは目に余るものと映るだろう。

 だがその一方で、たとえ雑であっても自分の見たい現実に縋る者が多いのも事実だ。自らやその同胞の利するところの現実であれば、たとえその先に他者の大きな不幸が存在していたとしても特段気にしない、いや、他人の不幸という現実そのものが「見えていない」人たちは確かに存在し増える傾向にある。

 ここのところ筆者のブログで取り上げてきた差別問題の中に登場する方たちは、その典型例とも言える。今まで、そしてこれからも世間で声を大にしていうことは憚られる「人類の恥」をさも「タブーへの挑戦」とばかりにどこまでも勘違いしつつ、自身の知性低下は棚上げで、「新しい常識」として世間に非常識をばら撒く裸の王様の如き人たちと、世界の現実との間にはチョモランマが低く見えるぐらいの巨大な「バカの壁」がそそり立っている。

 

 このバカの壁は誰にでも多かれ少なかれあり、押したり引いたりしてどうこうできる問題ではない。無理に乗り越えられるものでもない。その存在を受け入れ、認識し、仕組みをつぶさに理解しながら望むしかないものだ。その手がかりをこの本は身近な例を交えながら、脳が現実を認識するシステムを解説しながら丁寧に「バカの壁」の展開図を示してくれる。

 

 この本は2003年に発行されたものでもう10年以上経っているが、現代社会と照らしあわせた時、その問題に対する視座としての精彩は少しも色あせていない。それが喜ばしいことなのか、どうなのかよくわからない。その色あせないのは、現代人のバカの壁への認識の浅さが、10年以上前とあまり変わっていないか、あるいはそれ以上にひどくなっているからなのかもしれないからだ。

 

 この本をお持ちの方はもう一度読んでみることをおすすめしたい。持っていない人も手にとってみてもきっと損はしないだろう。その読書で日常が少しでもいつもと違って見えたのなら、費やした時間に価値があったといえるのだから。