読書録゛ ‐ どくしょログ

触れた、読んだ、書いた

書評: 祝山

友人から貰い受けた本。怖い。

祝山 (光文社文庫)

祝山 (光文社文庫)

 

オカルトを交えた物語構成でとても恐怖感を煽る本であった。筆者は基本的にオカルト的な経験もしたことはないし、信じてもいないが、思わず信じたくなってしまうような本である。自分から進んでこうした本は読むことは少ないが、いただく本の中にはこうしたテイストのものも入っている。自分の興味のみでは触れ得なかった世界があることを知るのはなかなか楽しい。

 

現代の都市で生活していると恐怖心を抱くことは少なくなってきている。交通事故や病気などに対する恐怖心はあると思うが、目に見えない、得体のしれないものに対する恐怖心は日常あまり経験することはない。それは自然に対する恐怖心と言い換えてもいいかもしれない。英国の地下鉄ではホラー映画の広告をよく見かけるが、人はどこかそうした得たいの知れないものに対する恐怖心を自ら欲しているのかもしれない。

畏れ敬う行為というのが普段の生活では薄れてしまっている。無条件で敵わないものという存在の正体がしだいに解き明かされるにつれ、畏れや敬いがそれらから消え、「普通のもの」や一般的な現象として扱われるようになってしまう。謎が明かされることで社会生活が快適になるのは事実だが、一方でどこか畏れ敬う神秘的なものを求めてしまうのが人間なのではないだろうか。無くなってしまうとそれはそれで寂しい気がしてしまうものではないだろうか。

 

この小説はその「畏れ敬う」心を今一度喚起させてくれる。物語の内容としては起伏は少ないが、淡々と進むその中に畏れ敬い」たくなる心をザワつかせてくれる。オカルトを決して肯定するわけではないが、すべてを「非科学的」と一蹴するほど無粋なことはしたくない。

畏れ敬う」心は、当時の先人たちがその時代や地域に合ったルールや文化を効果的に浸透させるために懸命に創りだした意思の顕れだと考えるからだ。何かを守りたかったために、呪いや悪霊といった「負のイメージ」を人々の心に定着させたといってもいいだろう。

たとえオカルト現象があってもなくとも、それを定着させた背景には何らかの意思はあったのだと思う。それに対して畏れ敬う」心を持っても何ら不都合なことではないのだ。